雑記

ゲームの記事はネタバレを含みますのでご注意ください。

坂上香『プリズン・サークル』 unlearnについて

更生を目的として受刑者同士の語り合いの場をもつ刑務所を題材としたルポ映画の監督による、映画と同名の書籍。

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映画の方は上映当時に渋谷で観た。

prison-circle.com

余談だが、この映画を何をきっかけに知ったのかの記憶がなく、気になっている。映画情報などをこまめにチェックしているわけではないので、何かきっかけはあったはずなのだが。

いくつか書きたいことがあるので、この記事では"unlearn"という概念について、思ったことをメモしておく。


本に出てきた「学び落とし(unlearn)」という言葉に、ありがちな連想だがソフトウェアのアンインストールが想起された。
受刑者が罪を犯すに至った、思考回路や行動パターンというものがある。「その場だけ言いくるめられれば後のことは気にしなくていい」「食べ物がないなら盗めばいい」「言うことを聞かせたければ殴ればいい」等々。
それらは(多くの場合幼少期からの)学習によって身につけた(learn)ものであり、先天的なものではない。ならば意識的な努力によって手放す・脱却する(unlearn)ことができるだろう、という発想だ。
これは簡単なことではない。どう考えても。

以下、ソフトウェアに喩えたりソフトウェアと比べたりして、つらつら考えていたことをいくつか書いておく。

  • インストールのガイドだけはある
  • 他のソフトウェアと依存関係があって消せない
  • 何がインストールされているのかがすぐには分からない
  • そもそも目的があって入れているので、単に消すのではなく代替を用意する必要がある
  • 人間の記憶にはDELETEが効かない
  • 人間はシステム全体を止めることができない

  • 懲罰感情について(ソフトウェア関係ない)

インストールのガイドだけはある

ソフトウェアの場合使ってほしいという意図をもって公開されているのだから当たり前なのだが、インストーラーはあって簡単に入るがアンインストーラーはない、という場合は多い。
ディレクトリまるごと削除」という人間にはできない乱暴かつ根本的な手段で排除したとしても、思わぬところに痕跡が残っていたりする。Windowsレジストリとか。
人間にも、学習・習得には大体やり方が用意されている。教本があったり、先達がいたりする。手本があり、真似すればできるようになる。
だが「忘れ方」はない。ソフトウェアのアンインストールは見つけやすい案内がないだけだが、人間の場合は、ない。

他のソフトウェアと依存関係があって消せない

単体で動くアプリケーションではなくライブラリでよく起きるやつ。
ソフトウェアAとBが入っている。Aを消したいが、BはAの機能を一部利用しているためAの存在を前提としている・Aがないと動かない(=BはAに依存している)。Bは便利なのでBまで消すつもりはない。困った。というような話。
人間の思考パターンでもこれが起きてる!と確信をもって例示できるわけではないのだが、起きていてもおかしくないよなぁ、と思った。
想像上の例だが、「言うことを聞かせたければ殴ればいい」という行動パターン(A)があったとして、
「いざとなれば殴ればいい」と考えることが本人の自信に繋がり、堂々とした態度をとれるが故に交渉ごとが得意だった(B)、とか。
AをやめたらBの根拠が崩れて、今まで本人としてはうまくいっていると思っていた・得意と感じていた仕事や人間関係が、うまくいかなくなるかもしれない。
そんなしょうもない自信はない方がいいというのは尤もなのだが、実際問題働いて身銭を稼がないといけないわけで、得意な仕事ができなくなるのはつらい。
Aを捨ててもやっていける、と思えないと人間は動けない。

何がインストールされているのかがすぐには分からない

アプリケーションの一覧画面があって、バックグラウンドで動くものも含め全てそこに出てくる、ならいいんだけどね。そうはいかない。
お手本にしたい人と自分との違いをそうやって一覧できたら、便利だろうか、それとも絶望を生むだろうか。

システムの場合は、「このソフトウェアが入ってるのでは?」と疑いを持てれば確認できる。入っているのかいないのか、バージョンは何なのか。
人間の場合、その疑いに到達できたとして、断定はできない。似ているが別の何かかもしれない。
まあ人間の場合、入っているのがなんであれ対処法は同じ(代替となるよりよい手段のインストール)だから前に進むことはできるけど、自分が一体何でできているのか、知ることができればいいのにと思わないでもない。

そもそも目的があって入れているので、単に消すのではなく代替をインストールする必要がある

どんなソフトウェアも目的があって入れている。
システムの場合はユーザー本人の意志と関係なく勝手に入れられるマルウェアもあろうが、人間の場合、親にしか利益のない虐待的な躾であっても、「覚えれば覚えないよりも虐待がマシになる」という利益と目的がある。そんな目的持たずに済むのがいいのだが。
傍目から見れば誤った解決方法であったとしても、何かしらの問題に対する解決方法であることは間違いない。
食べ物がなくても盗んではいけません。盗むのをやめなさい。と禁止しても、食べ物が湧いて出るわけではない。盗む以外の食べ物の調達方法を覚えないといけない。
そしてその代替をとれないことには理由があったりするのだ。人に相談する、福祉に頼るという「真っ当な」手段が思いつかなかったというよりも、それができなかった・やっても無駄だと判断する理由があることの方が多いのではないか。
実際、本の中にも「人に相談するのが苦手」「どうせ話なんか聞いてもらえない」という声は出てくる。
それは経験に裏打ちされた、本人にとっての真理だ。これを乗り越えて「人に相談する」という手段をインストールして安定稼働できるようになってからでないと、「盗む」は手放せない。

ある行動パターンを覚えて、(たとえ極度に近視眼的な成功であっても)成功体験を積めば、意識しなくても報酬を求めて脳が勝手にやってくれるようになる。
だが、そこまでいくと止めるのは難しい。敢えてやっていることなら止められるし、敢えて何かをすることもできる。だが、無意識に出てくるものをただなくすことはできない。
必ず、「悪いパターンが出そうなときは、代わりにこれをする」という新しい学習が必要になる。
人間の場合厳密に言えば、アンインストールは不可能だ。上書きインストールをするしかない。習得が簡単でなかったとしても。

人間の記憶にはDELETEが効かない

システムならファイルを削除してしまえば、目的のソフトウェアはうまく動かなくなってくれる。
だが人間の記憶は削除できない。思い出も、学習結果も。
「食べ物がないときは盗むのではなく、こうする」と新しい手段を覚えたとしても、「盗む」のやり方や、手っ取り早さを忘れることはできない。
「盗む」が生む問題点を新たに覚えて、それで抑えつけていくしかない。
「盗んだのがばれる」の問題点じゃなく、「盗む」の問題点を。覚えて納得しないといけない。
それは「盗んだことがある」自分を否定する価値観を内面化することでもある。「盗んだことがある」という記憶もまた、消すことはできない。

窃盗の常習犯で、窃盗について罪の意識が希薄だった(ビニール傘を取って取られてが当たり前というような感覚の延長で金銭も盗んでいた)という人が本の中に登場する。
被害者がどう感じたかを受け止め、どうやらとんでもないことをしていたらしいと気付く過程はあまり詳しくは語られていないのだが、気付いたらしい本人が苦しそうにしている姿は描かれている。
苦しいだろうなと思う。受け止めきれなくて逃げたくなったり、勇敢に立ち向かっても「当たり前だ」と別に褒めてもらえなかったり、楽な道のりではないはずだ。

人間はシステム全体を止めることができない

正確には、「止めて再起動」ができない。永久に止めてしまうことしかできない。
動き続けなければならない。食べ物を確保することも、ムカつく出来事に遭うことも、「今再学習中なんでちょっとストップね」ができない。
刑務所にいれば金稼ぎはストップできるといえばそうだが、ゆっくり再学習するための時間として使えるわけではない。この本や映画で紹介されているセラピーは、日本ではこの刑務所だけで行われたもので、コロナ禍を経て現在維持されているのかはちょっと怪しい。
たとえ新しいより良いやり方について知れたとして、まだ習得できていないうちから解決するべき問題はいくらでもやってくる。
本当にしんどい道のりだ。元の「手っ取り早い」やり方に、戻りたくなくても戻るしかない瞬間もあるかもしれない。

懲罰感情について

罪を犯したのだから苦しめ。犯罪以外での問題解決はお前にはできなくても、普通はそれが当たり前なんだ。できなかったお前がおかしい。ただ普通になるだけのことを大変だなんて、甘えるな。ふざけるな。お前が悪いんだろう。
そう言って犯罪者を痛めつけないと満たされない懲罰感情は、再犯を減らすという目的とは相容れない。
人間、苦しいことは自主的にはしたくない。一生強制することも、強制する側の人手とか設備とかが必要で、すべての犯罪者を終身刑にするわけにはいかない。苦しくても自主的に更生してもらえるのが一番で、そのためには痛めつけるだけじゃなく支援する必要がある。
懲罰感情はそれを受け入れられない。支援する方が実利があったとしても、したくない。拒絶する。
私自身にも明確にあるのだが、これは複雑な感情だなあと思う。

「可能な限り重い罰を受けないのはズルい」と言えばそうなのだが、「羨ましい」ではない。
「悪いことをしたら不幸になる」という物語が崩れたら自分は悪いことしようとするかというと、そうじゃない。
「自分はしないけど、他の人間はするのではないか」「そして自分がひどい目に遭わされるのではないか」という恐怖はある。
トイレットペーパーの品薄みたいな話だ。供給がなくなるわけじゃないと知っていても、みんなが「ばかなやつが慌てて買い占めて、本当に在庫がなくなるかもしれない。だから自分も買っておこう」と考えることで、本当に在庫がなくなる。自分はそんなことないけど、他人は信じられないからね、と慎重に、防御的な行動を取る。
だが、懲罰感情の理由がそれだけとも思えない。
もっと単純に、自分が内面化している「悪いことをしてはいけない」というストーリーに反することへの嫌悪感もありそう。

問題は、「悪いことをしてはいけない」は犯罪者だって思ってるってことだ。
何を「悪いこと」として、何を「これくらいいいじゃない」とするかは、人によって・場面によってコロコロ変わる。
周りがみんな「いいじゃない」と言えば流されるのが人間だ。悪の凡庸さ。
絶対的な指標などない。それが分かっていれば、犯罪者と自分、自分の身近な人との距離が案外近いことも分かるのだろうと思う。
だがそれは、分かりたくないことでもある。自分は正しい方に決まっていると信じていられる方が、心理的負担も思考コストも安く済む。人によっては幸せの条件でもあるだろう。
犯罪者が自分の犯罪を悪いことだと捉え直すのがしんどいことであるのと同様、自分を「普通」と信じている人が犯罪者を自分と地続きの人間であると捉えることは、とてもしんどい。

人間は動物の一種であり、苦しみを嫌い安息を喜ぶ。
しかし人間は意志と良心を持ち、苦しくても正しいと信じる道を歩むことができる可能性をも持っている。
苦しみから逃げたい、楽な方に行きたいという心は決して責められるものじゃない。
だからこそ、苦しんででも進もうとする姿には、こちらが救われるような気分になる。人間の可能性を、人間の強さを、信じることができるようになる。

こんな映画が、本が生まれる大元には、受刑者たちが犯した罪があり、その被害を受けた人の苦しみがある。受刑者たちをそう育てた環境があり、その環境に参加している人たちをそうさせた何かがある。
どれも無かった方がよかったことに違いない。これらの物語の生い立ちを祝福することはできない。
それでも、これらの物語には感動させられる。
無かった方がよかったことを、減らすことができる希望がそこにある。