雑記

ゲームの記事はネタバレを含みますのでご注意ください。

岡田育『我は、おばさん』

読んだ。

 

母親にならずおばさんとして次の世代に口を出す。それがもたらすかもしれない解放と、無責任だからこそ害悪にもなりえる難しさを説いているのは、いい。

でもどうしても引っかかる。

姪たちを励ます、少女たちを母親とは違う視点から助ける、そんな話ばかりだけどさ。

女しか助けないの?

男の子のことも、男の人のことも、助けたっていいじゃない?

恋人になるわけじゃない。母親代わりに甘えられることはお断りだ。別にそのスタンスでいいじゃない。

恋人でも母親でもない、他人ではあるが味方する人間として、人と接することはできるでしょう。

こちらの性別も相手の性別も大した問題じゃない。男性の思うカワイイオンナノコ像や聖母像に縛られないというのであれば、なおさら。

 

お手本になるおばさんたちを実在創作問わず挙げていっているなら『守り人』シリーズのバルサは外せないだろうと思ったのだけど(文学界での位置とか、どのくらいメジャーなのかは正直わからないけども)、出てこなかった。

チャグムが男の子だからだめなんだろうか。そう思うと悲しい。

異性の別世代だから分からないことはとても沢山あるだろう。とはいえ、同性で同じ縛りに生きていないからこそ言える言葉もあるだろう。

できないこともあるが、できることもある。

 

私には、人を守ろうと気張れるほどの強さはない。

24時間365日誰かの守護者であることはできない。自分の時間がなければ私はすぐに余裕をなくして、暴君の虐待者になってしまう。裁量権を持ってはいけない人間だ。

でも、通りすがりでできる範囲なら、誰であれ助けたいよ。

年下も年上も、女も男も。できないことはものすごく多いけど、できることを「年下の女にだけ」与えようなんてのは、気持ちが悪い。

子どもの頃の自分を助けているつもりか?

同性の方が投影しやすいというだけで、その相手は他人だ。私が子供の頃欲しかったものを、その子も欲しがるとは限らない。

同性だとしても、異性と同じように、他人だ。

異性だとしても、同性と同じように、同じ人間だ。

 

私は「姪っ子たちを応援する、名前のあるおばさん」にはなりたくない。

通りすがりに、誰であれ助けを必要としている人に声をかけられる、モブおばさんになりたい。

「姪っ子」にとっての特別な人になって、自分の名前を記憶に留めてもらおうだなんて、気持ちが悪い。産んでも育ててもいないのに、他人の苦労にタダ乗りしようとしているかのようで。

 

私は産まないことで自分と自分の子供を守る。産まないし育てないのだから、私が死んだ後次世代として残るものは何もない。そのくらい承知の上だ。

産まないし育てない、負担は負わないしガミガミ言ってうるさがられる母親の役回りは嫌だけど、あわよくば母親よりも重要な人物として記憶されたいなんて、下心にしたって都合が良すぎる。

それは、母親たちを馬鹿にしすぎじゃないか。

 

「誰かの記憶に残りたい」という願いは、小さな人情とでも言うべきものかもしれない。許すべきなのかもしれない。

でも自分はやりたくない。

矜持ってものがある。