雑記

ゲームの記事はネタバレを含みますのでご注意ください。

3月10日

東京大空襲の日である。

明日3月11日は東日本大震災の日。
今からたったの5年前、何の心の準備もなかった平時に突如発生し、2万人近くの人の命を奪ったこの災害は今も生々しい記憶と言える。
東日本大震災自体は特定の地域に集中的に被害をもたらした災害だが、大地震津波原子力発電所の安全管理といったテーマは日本の他の地域に住む人にとっても他人事ではない。
それに比べれば死者数10万人とはいえ71年も昔、戦時中という特殊状況下でなされた爆撃のことは、あまり顧みられないかもしれない。

とはいえ、私個人にとっては東京大空襲は地元の話だ。
私が通った小学校は当時数少ない鉄筋コンクリートの建物だったため、空襲の夜には隠れ場所を求めた人々が殺到し、周囲に死体の山ができたという。
空襲を扱った子供向けのアニメ映画も何度も見せられたし、関東大震災東京大空襲の犠牲者を併せて祀った東京都慰霊堂は身近な遊び場の公園だった。


戦争中といえども民間人の殺戮は非難されることが多い。
第二次世界大戦中の各市街地への空襲と、悪意なき人間の行為としては最もおぞましい部類に入るであろう原爆の投下についても、主体であり戦勝国であるアメリカ国内からも非難の声があるという。
しかし非難されるべきかされないべきかなどという次元の話ではなく、起こるべきでなかったことだと個人的には思う。
それを起こしてしまう戦争という状況が、私にはとても怖い。
ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントナチスによるユダヤ人大虐殺について、「凡庸さがもたらした悪」と評したが、凡庸であるだけで人間を殺してしまうのが戦争だ。
凡庸であることは罪ではないと思う。状況には流されるのが人情。なら、流されると人殺しになってしまうような状況はない方がいい。


そんなことを考えたのは大空襲の日だからではなく(地元の話とはいえ毎年この日になれば深く考えるというほどの誠実さは恥ずかしながらない)、今読んでいる本が戦争関連なのと、ちょうど今日立て続けに銃について触れた記事を読んだせい。

石川 明人『キリスト教と戦争』 (中公新書)
http://www.cnn.co.jp/usa/35079268.html
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/column/14/110600091/030200049/

特に結論が出たとかいうまとまりのある考えではないのだが、感じたことをメモしておく。


■銃を持つのは身を守るため
http://www.cnn.co.jp/usa/35079268.html
銃推進派の人が、自分の子供(幼児)に撃たれて重傷、という話。幼児による誤射事件はCNNジャパンを見てるとそれほど珍しくない事件であることがわかる。
そもそも子どもの手が届く家の中(この記事の事件では車の中)銃なんか置かなきゃいいのに、と、銃推進派を批判するというか馬鹿にする材料にはもってこいの事件のように見える。子どもに射撃訓練させて喜んでたなんて記述もある。
とはいえ、こういう悲劇が起きたからといって、「ホラ見ろ銃捨てろ!」と嘲ることができるような話なんだろうか。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/column/14/110600091/030200049/
こちらは会員向けの記事であるため会員でない人には該当箇所が読めないが、「犯罪抑制のために政府が個人端末の中身を見ることができるようにすべきかどうか」という問題に関連して、ちらりと銃規制に言及している。
安全保証のためにiphoneのロック解除を認めるべきという世論もあるが、安全を求めるのであれば、ロック解除よりも銃規制を厳格化するべきではないかとも考えられる。しかしそれは日本人の発想であり、アメリカ社会では銃規制はセンシティブな問題である、としている。(当ブログ管理者による要約)

アメリカ人だろうが誰だろうが、自分や自分の仲間に敵意を持っている人には銃を持って欲しくないだろう。誰でもいいから殺してやりたいなんて気分の人間も、もちろん銃を持っていい人とは言えまい。
まっさらな状態から新しい社会を作れて、外敵(野生の熊とか他の社会の人とか)からは安全が保証されているとすると、滅多なことでは銃を持てないようにしようと考える人の方が多いのではないだろうか。
しかし現実問題、アメリカではすでに多くの人が銃にアクセスできる。自分や自分の家族、仲間に対して敵意を持っている人がいた場合、既にその人たちは銃を持っている可能性は十分にあるのだ。
誰からの敵意も買わないなんていうのは現実問題難しい。逆恨みというものもあれば、「以前××出身の人にひどい目にあわされたから××出身の人間はみんな嫌いだ」という困った人もいるかもしれない。
アメリカでなくても場所によっては強力な殺傷能力がないと自分や家族の身が危ないという状況だってあるだろう。熊とか。

■戦争するのも守るため?
石川明人『キリスト教と戦争』はタイトルの通りキリスト教と戦争との関わりについて結構丁寧にまとめられた本で、「知識人(笑)が俺詳しいぜ感をまき散らすだけで特に結論も具体的な情報もない」というありがちなタイトル詐欺の新書とは一線を画す良著と感じている。
キリスト教って愛と平和とか言ってるけど戦争は推すの?」という疑問については「キリスト教も色々なんだよ」という回答になっているのでやや曖昧といえば曖昧なのだが、「色々」の例を具体的に挙げていて、はぐらかしている感じはしない。
この本の最後で、「そもそもなんで戦争が起きるのか」について触れられていて、その内容に納得がいった。
戦争の理由としては経済的動機、宗教的動機が挙げられるが、戦争すれば経済的に潤うという合理性は実はあまりない。戦争に至るような心理状態というものがあるのだ、と。

・悪いことは外から来るという意識(仲間うちだけなら平和なはずなのに、問題が起きるのは外部の要因のせいだと考える心理)
・悪いことは意図的になされるのだという被害者意識(対立する相手の悪意を必要以上に邪推してしまう心理)
・今起きている悪いことは「よくあることで、気にしないでいい」ことではなく、しっかり対処しないと後の時代にも影響を与える特別な問題だという意識
戦争というのはスケールが大きい上に人一人の意思だけで決まるようなものではないと思うので私にはさっぱり掴めないのだが、この心理状態については割合に納得ができた。個人についても適用できる考え方だと思う。だってこれらは全てとても一般的で、人間的な考え方だ。

身近な協力者に対して外部の見知らぬ人よりも親近感を覚えるのは自然なことだし、人間、好きな相手のことは悪く考えたくないものだ。とても仲の良いチームが手掛けていたプロジェクトが苦境に陥ったとして、自分たちのせいか客や取引相手のせいかグレーだった場合、外のせいだと愚痴をこぼしあうことくらいは当たり前によくあることだろう。むしろ仲間に厳しくそのような愚痴すら許さない人は、あまりチームプレーに向いていないとさえ考えられる。
人間は社会的な生き物である。だから社会の中の協力関係はとても大切であり、仲間との絆を守り、不和を生じさせないことは重要な能力だ。

また二つ目については、何か嫌なことをされて腹が立てば、「どういうつもりだ!」と相手の意図を質したくなるのも人情と言えよう。実は単なるケアレスミスであり悪意などかけらもなかったとしても。なんの意図もない透明さから害をなされることに人間は納得できず、耐えられない。悪意があって意地悪をされる方が、まだましなのだ。
人間は意味を重視する生き物である。嫌なことを受け止めるためには、何か意味を見いだせずにはいられない。

三つ目、これは時代に関してだけではなく、自分が関わることは本人にとっては特別なこと、それは本当に、当たり前のことだ。特別で重大なことだから、特別で重大なことであってほしい。自分にとっては重大なことが他人から見れば何でもないことだ、というのは、よくあることだが結構な苦痛でもある。だからこそ、他人の問題を自分のことのように重く考えてやれる人は思いやり深く優しいと評価される。
人間は主観を通してしか物事を見ることができない生き物である。自分に関わることは重大だ。


戦争が引き起こすのは非人間的な事態だが、戦争に至る心理は、これの通りなのだとしたら、とても人間的だ。
人間はうかうかしてると争ってしまう生き物なのかもしれない。
だからって、人間本来の営みであるといって争いを肯定することはできない。本能だとか心理的バイアスを把握した上で、理性という第三の要素によって行動を決定できるのが人間だ。
争いを産みやすい傾向があるのなら、そうならないように誘導する。そうなりにくい状況を作る。そういう地味で継続的で現実的な対処こそ、必要なのではないか。

争いとは関係のない話だが、人間、きれいな街ではポイ捨てをしないという傾向があるらしい。
手元に置きたくないゴミを手放そうとするのが本能、汚い場所であればまあいいかと捨ててしまいやすいのが心理であるとするなら、そういう心理をはたらかせないように街を常にきれいに保つのが、理性による対処だと思う。
それは「捨てたくなるのが本能なんだから仕方ないよね」と諦めたり、「ゴミをポイ捨てする人間はクズだ」と感情的に批判したりしていては決して見つけられない対処法だろう。「きれいに保ちたい」という理想を捨てず、かつ、「汚くして良さそうなところなら汚くしちゃう」という人間の心理からも目をそむけない、その上で頭を使って対処法を考え、地道に継続的に実行する必要がある。
人間が他の動物よりも"偉い"生き物かどうかには議論の余地があると思うが、この理性的な対処は、人間だからこそできる高度な技だろう。

戦争はもちろん、もっと細かくて身近な争いについての理性的な対処がどういうものかはまだわからない。
相手の事情を考慮せず被害者意識満開で口汚く罵る人が私は嫌いだ。正確にはそういうことをする人だと無条件で100%嫌いになるわけではなく、そういうことをしてほしくないと思う。
それは多くの場合陰口であり表立った争いを生むものではないが、冷戦には違いない。解決がとても難しいものもあるだろうが、それほど難しくないものもきっとあるはず。