雑記

ゲームの記事はネタバレを含みますのでご注意ください。

フランクルについて覚書 : 「態度価値」=「かっこよさ」

「マンガで分かる心療内科」の最新話がV.E.フランクルを取り上げていました。
自分にとっては結構タイムリーだったのでちょっとびっくり。

収容所のエピソードなんかは以前ここにちらりと書いた『夜と霧』にもあるもの、
3つの価値については現在チャレンジ中の『人間とは何か』に出てくる話ですね。
漫画になってるとやっぱりわかりやすいとも思いますが、態度価値の解釈は私のとは少し違ってました。

きちんと精神医学を勉強したわけでもないので専門家の方が監修されているものに文句を言うのは大変おこがましいことと承知の上で、自分の解釈を書き留めておこうと思います。


人生に生きる意味を与えてくれる価値として、フランクル
「体験価値」
「創造価値」
「態度価値」
の3つを挙げています。
価値っていうと抽象的ですが、「生きててよかった!」「自分は価値があるんだ!」と思わせてくれるもの、みたいなものですかね。

体験価値は、
「ビールがうまい!生きててよかった!」
「舞台を見てマジ感動した!生きててよかった!」
「憧れの人と喋れちゃった!生きててよかった!」
という類のもの。ほぼ生理的な快感。

創造価値は、
「今回の絵は会心の出来だ!今まで絵を描いてきてよかった!」
「俺の冗談めっちゃウケた!俺才能あるんだ!」
という類のもの。何かを成し遂げて得られる達成感のような、体験価値よりはちょっと高度な快感。

この二つはわりとわかりやすいです。誰しもそれなりに経験があって、かつ想像しやすいものでしょうから。
ただしそれぞれ周囲の環境や自分の才能と言った、どうにもできない要素にかなり依存します。

病気になってビールが飲めない。
お金がなくて舞台を観に行けない。
憧れの人が冷たい。
絵を自分で描いてみたらどうしてもダサい。他のうまい人のようにいかない。
うまい冗談は考えついたけど披露する場がない。

このように状況や自分の持つ力によっては、他に謳歌している人がどれほどいようが、自分には絶対に得られないものになりうるものです。

では環境か才能に恵まれない人は「生きててよかった!」と思うことができないのか、そういう人の人生には価値がないのかというと、そうじゃない、3つ目のもっとも重要な価値が残されている、というのがフランクルの主張。

このへんまでは「マンガで分かる心療内科」と私の見解は同じです。
違うのは態度価値の内容ですね。

マンガで分かる心療内科」では、態度価値を「心の中で意味を考え続けること」としています。
そして例示するキャラクターが考えるのは「今を我慢すれば、後でよりよい体験価値/創造価値が得られる」という希望です。

それは未来の体験価値と創造価値を当て込んでいるだけで、別種の価値の説明にはなっていないんじゃないのかなぁというのが私の感じた違和感。
この先体験価値と創造価値を得られる見込みがゼロになったら潰える希望なわけで。

私が現在とらえている態度価値とは、先行きは暗いと確実にわかっている場合であっても持ちうるものです。

この先一生ビールは飲めません。
憧れの人は手の届かないところに行ってしまいました。
利き手に障害を負ってしまって、今までのように正確な線を引くことはどうしても不可能です。

そういう絶望的な状況で、体験価値と創造価値を得ることはできません。
でもどんな状況であっても、「この状況に対して、あなたに残された力で、あなたはどうするの?」という問いへの答えを自分自身で決める自由は最後まで残されています。
そこで自暴自棄にならずに、自分の意志を持ち、自分の取る態度を自分の良心に従って決めること。それが私の考える「態度価値」です。

なんでそれが価値なのか、ということが直観的にはわかりにくい価値ですが、重要なものを得られるまたは失わずに済むのです。

それは誇りと、「かっこよさ」。

苦境にあっても、

「私を傷つけたあの人が悪いんだから私だって他の人を傷つけていいでしょ!」
「盗みを働くのもやむなしだろ、だって俺困ってるんだから!」

と言い訳しながらかっこ悪い行動をする、かっこ悪い態度をとるのではなく、

「確かにあの人はひどいけど、私は同じ穴のムジナにはならずにいてみせる」
「困っちゃいるけど人様のものに手を付けるほど落ちちゃいないよ」

という態度をとる方が、(もちろん個々人の価値観と良心次第ですが)かっこいい。
このかっこよさは本人たちを楽にはしません。わかりやすい快感を得させてもくれません。
とはいえ、このかっこよさに価値がないとは誰にも言えないと思います。

物語のヒーローは必ず苦境に立たされます。
苦境を乗り越えるからこそのヒーローであって、逆に言えば苦境がなければかれは自分自身をヒーローであると証明することができません。弱い相手になんのハンデもなしに勝つなんて、ヒーローでなくてもできること。
そして人はヒーローに憧れます。たとえ財宝を得られなくても、悲劇で終わっても、そのヒーローを「生きてる意味がない、無価値な人間」と断ずる人はあまりいないでしょう。
なにせ苦境にめげない、言い訳しない、意志を貫くヒーローは「かっこいい」から。

そしてこの「態度のかっこよさ」という価値は、どんな苦境に立たされても、どんなに能力がなくても得ることができるものです。
どんな態度をとるのがかっこいいと思うかは価値観や良心に左右されるので人それぞれですが、自分自身が言い訳せずにかっこいいと思える態度をとることができれば、その態度には十分に価値があるのです。価値観が合わない人間に理解されず非難されたとしても。


ビールが飲みたいのに、医者に止められていて飲めない。

そういう「うまくいかない」時、大げさに言えば苦境にあって、

飲み会に行って、飲める人に「お前はいいよな」と愚痴をこぼす。
飲み会に行って、嫌な顔はおくびにも出さずにウーロン茶を飲む。
飲み会に行かない。
自分が飲めないんだから飲み会をするなよと頼む。

取り得る手立てはいろいろです。正解はありません。
嫌な顔をせずにいるのがいい人のように見えますが、飲み会メンバーが愚痴くらいこぼしてもいいよという間柄なら水臭い上にストレスをためるだけかもしれません。
飲み会をするなというのはひどいわがままのように見えますが、その人が酔って面白い話をするのを目当てにみんな集まっているというプレッシャーがかかっているのかもしれません。

その人が何を大事に思うのか(場の空気?自分のストレス?相手との親密さ?)、その人はどういうキャラで通っているか、飲み仲間とはどんな間柄かによって、話は変わります。
「正解の態度をとること」に価値があるわけではありません。「自分で、これが最良だと判断した態度をとること」に価値があるのです。


これからまた私自身の考え方も変わるかもしれませんが、現時点での見解でした。