雑記

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フランクル「人間とは何か」読書メモ:信仰について

犬が病気の治療のために獣医に連れて行かれた時、かれはなぜ主人が自分をこんな嫌な目に合わせるか理解することはできない。それでも、そのためにかれの主人への信頼、主人への愛が崩壊することはない。
苦悩を試練と受け入れるというのがこういうことなのであれば、信仰あつい人は苦悩の意味を知っているのではない。苦悩の意味を追求しないのだ。意味はわからない、けれど自分は主人が自分を愛していることを知っており、自分が主人を愛していることを知っている。それで十分、ということか。確かに意味を考えても無駄なことは多い。どうして私がこんな目に!という疑問を一旦諦めて、こんな目に遭ってしまったことは仕方ないと諦めないと、人間、前に進めないのだ。ユダヤ教徒であるフランクルの考える信仰とは、諦めを神との信頼関係と愛によって実現しようとしている。
神なんて疑おうと思えばいくらでもできる。「人間には全てはわからない」という設定だ。主人が真に自分を愛しており、自分には理解しようのない高次の目的のために泣く泣く自分を苦しめるのか、あるいはこの瞬間のためだけに今まで自分を欺いて愛しているふりをしていたのか。結局、信仰する人自身がどう判断するかに委ねられている。結婚詐欺師をかれの目論見が明らかになった後も信じる人がいたとして、かのじょの愛と信頼は嘲笑されるかもしれない、だがかれとかのじょの内面の真実がどうだったのかを他人が知ることが、裁くことができるだろうか?
信じることは勇気がいる。愛することも。その道を選ぶことが信仰をもつことなのであれば、真の信仰とはなるほど強い精神からしか生まれまい。
私は弱い。強くありたいのかというと、それもわからない。目に見えない内面のみの世界に住んで、外部からの批判を受け付けない「信心深い」人は私は嫌いだ。神と通じ合えていさえすれば隣人に誤解されても構わないと言えるか?私の答えはノーだ。
私は人に理解されたいし、人の理解を得ようとせずに内に籠るひとびとには反感をもつ。それは自然なことだと思う。
私はいわば、ユダヤ人を迫害したひとびとの側なのだ。反感を抱いたからといって相手を排斥しようとするのは明らかにおかしいし、そんなことはしたくない、誰にもして欲しくないと思う。だが、反感を覚えるところまでは、共感できてしまう。
線を引く必要がある。反感を覚えることと迫害に至ることはイコールではない。イコールだと主張して思考停止に陥ることは、考える生き物であることを放棄する恥ずべき行為だと私は思う。
イヤだと思った、ならば叩かずにはいられない、なんて、それしかできないわけではないはずだ。自分自身後味の悪くならないような、悪感情の発散方法はあるはずだ。