雑記

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歴史に興味が出てきたというはなし

梅棹忠夫『文明の生態史観』を読んでいる途中。

初版1957年と結構古い本だが、文章が平易なこともあって読みやすく、内容も面白い。
大学在学中に出会いたかった気もするが、当時は歴史や民俗、宗教なんかのテーマを掘り下げようとはしなかっただろうな。

小学生以来ずっと日本史・世界史という科目にさして興味がなく、「歴史は自分には向かないテーマ」と思いこんでいた。
勿体ないことをしていたと思う。高校までの科目の勉強が面白いかどうかと、大学以降に研究テーマとして扱って面白いかどうかはまるっきり別のことだ。
高校までの勉強は、パズルゲームに近い要素もあって問題を解くのが面白い数・理・英が好きだった。多分ゲーム競技としてのテストが好きだったんだと思う。

今も研究というほど大層な興味があるわけではないが、覚えなければならないというプレッシャーもないので、単純に、知ることを面白がれるようになった。
自分にかかわりのあることが今のようになった経緯を知るのは面白い。
個性的な知り合いの育った環境なんかの話を聞くのが面白いのと同じだ。

歴史のなかでも、宗教史、主にユダヤ、キリスト、イスラムの"アブラハムの神"の宗教に興味がある。
いわゆるクリスチャンホームに育ち、キリスト教系の学校にも通っていたために、他人に冷たく自分に甘かったり、精神的に不安定だったり、政治論議が好きだったり、色々なキリスト教徒を見てきた。
また、漫画やゲームに出てくる天使や悪魔についてのことなど、キリスト教由来の要素であるらしいのに、教会では一切聞いたことがなかった。
そのために、
 ・聖書でイエスが言っている(と書かれている)こと
 ・漫画やゲームに出てくるキリスト教由来らしき要素
 ・現実のキリスト教
の3つの間のギャップが大きな関心事になった。

そもそも聖書は複数の書物の集合体なので、内容に一貫性はない(数多の書物のうちからどれを聖書に編入するかを決めたのも、イエスの時代の人ではなく相当後の時代のヨーロッパ人だ)。
漫画やゲームには天使や悪魔が固有名と設定つきで沢山出てくるが、そんなもの聖書にはほとんど書いていない。のちの時代の人が(おそらくは土着の信仰を吸収して)取り入れたものだ。
日本ではそうでもないが、欧米では周りがみんなそうだから生まれた時からキリスト教徒で当たり前という場合もあるのだろう。そのメンタリティと、イエスが受けた少数過激の異端であるという扱いは魔逆だ。多分、先祖代々キリスト教徒で敬虔に信仰を守っているような人は、今の時代にイエスみたいな人が出てきたら絶対に排斥しようとするだろう。

同じキリスト教にまつわることでも、時代が違い、経てきた歴史が違う。文脈が違うのだ。
どういう経緯で生まれたものかを無視して我田引水、それでも二千年も続けば、引き回され継ぎ足されくねくね曲がりくねった解釈が、正統であり伝統になる。
嫌悪感もあるし、面白さも感じる。イエスに言葉を預けたのは神かもしれないが、キリスト教という宗教を形成したのは人間だ。私はその人間に興味がある。

それぞれの時代のそれぞれの地域のそれぞれの立場の人が、それぞれの事情に従った結果、なんと二千年も同じタイトルが残っている。
残っているのはタイトルだけだとしても驚異的だ。そういう意味ではユダヤ教もとんでもない思想といえる。

その、それぞれの文脈は歴史の勉強をしてみないとよくわからない。
そういうわけで、歴史の話が好きになった。
キリスト教という身近で不可思議な存在がどうしてこう育ったのか、特に結論を出す必要があるわけでもなし、ぱらぱらと色々な本を読むのは丁度いい趣味といえる。