雑記

ゲームの記事はネタバレを含みますのでご注意ください。

ハンナ・アレント『人間の条件』

まだ読み始めだけど面白い記述があったので。

 

公的(パブリック)な場でできるような自己実現は、私的(プライベート、語源は「奪われている」)空間では達成不可能である。

ギリシャ時代でいう「プライベート」とは生命の存続のための行動のこと、つまりは商売もプライベート領域に入る。個人の利害抜きの政治議論のみが公的だった。

 

25日に部活OBの面々で、部活のあるべき姿について酒を飲みながら侃々諤々議論したことを思い起こすと、このことが少しわかる。会社ではあれはできない。

率直な意見を言い、相手の意見に反対し、仲が悪くなっちゃうと困る。決定的な他者・異物とわかってしまうと困る。先日の議論自体、異物とわかってもなんとかやっていける仲間という予測があるからやれたことではあるだろうが、会社ではそんな賭けはできない。

 

家庭もそうなのだな。生命維持、人間の基本的な(動物的な)欲求をみたすための場所。パートナーが欲しい、親が欲しい、子が欲しい。

ここでは他者性はなるべく隠しておいたほうがいい。最後の最後は同じ立場でないといけない。

互助組織で真なる議論などすべきではない。部活OB会のように生活がかかっていない、けれど思い入れがある場だからこそあんな議論ができるのだ。

 

大衆社会は他者と均一化していると錯覚させ、他人でも同じ意見を期待する。「他人によって保証されるリアリティが奪われている」、なるほど。

確かにああやって議論して根っこの違いが浮き彫りになってみてはじめて、私自身の姿も鮮明になる。衝突してはじめて輪郭がはっきする。

ただ利害だけならいくらでも衝突できよう、でもあれはそういうものじゃない。信念とか理想とかの衝突であり、ただの動物ではない人間の自己を定義するに相応しいものだ。得したい、優しくされたい、そんな欲求なら、別に人間に限らずどんな生き物にもある。

あの場にいた全員、あんなに白熱した議論をしていたにも関わらず、利害など何一つ絡んでいなかったのだ!